中岡 正薫 弁護士のブログエントリー一覧
弁護士 中岡 正薫
2016年04月11日(月)
寿限無
別名では「長名」とも言います。
早口言葉でもお馴染みのこの噺、生まれた子に良い名前をつけたいと考えた親が、お寺の和尚さんから聞いた縁起のよい言葉を全てつなげて子の名前にしてしまうというお話です。
その子の名前が、
「寿限無 寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 藪ら柑子の藪柑子 パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」
というのですから、現代の子に名付けたとしたら、名前を書く時間さえ惜しい受験や入社時の自己紹介ではさぞかし苦労することになりそうです。
子の名前といえば、昨今ではキラキラネームなどという言葉が生まれて、今までにはなかったような漢字や読み方を使った名前を子につけるケースが増えているようです。
キラキラネームの是非はさておき、かの吉田兼好が書いたとされる「徒然草」にはこんな一説があります。
「寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は少しも求めず、ただありのままに、やすく付けけるなり。この比(ごろ)は深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目なれぬ文字を付かんとする、益なき事なり。何事もめづらしき事をもとめ、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。」
(口語訳)
「寺院の名をはじめとして、その他あらゆる物にも、名を付ける事において、昔の人は少しも趣向をこらさず、ただありのままに、わかりやすく付けたのである。この頃は深く考え、知性をみせびらかそうとしているように思われる、たいそうわずらわしいものだ。人の名も、見慣れない文字を付けようとする、無益なことだ。何事も珍しい事を求め、奇抜な説を好むのは、教養の無い人が必ずやる事であるという。」
鎌倉時代にも現代人と同じような嘆きがあった(嘆く人がいた)というのは面白いですね。
弁護士 中岡 正薫
2016年02月02日(火)
粗忽長屋
住人が皆粗忽者(そそっかしい人)ばかりという長屋に住む八五郎と熊五郎。
ある日、浅草観音詣でに来た八五郎は人だかりに遭遇します。その場にいた役人に行き倒れがいると聞かされた八五郎がその死人の顔を見ます。すると、八五郎は、「こいつは同じ長屋の熊五郎だ。そういえば今朝こいつは体の具合が悪いと言っていた。」と言い出します。役人は「この行き倒れが死んだのは昨晩だから、今朝会ったというお前の友達とは別人だ」と言うのですが、八五郎は聞く耳を持たず、「これから熊五郎本人を呼んでくる。」と言い残してその場を立ち去ります。
八五郎は長屋へ戻ると、熊五郎に「お前が死んでるぞ。」「お前は粗忽者だから自分が死んだことにも気が付いてないんだ。」などと言い聞かせ、自分は死んだのだと信じた粗忽者の熊五郎を行き倒れのところへ連れて行きます。
熊五郎は、死体の顔を見て「これは間違いなく俺だ。」と言います。周囲の者は呆れて「この死体がお前のわけがない。」と言いますが、熊五郎も八五郎も納得しません。2人が「熊五郎の死体」を抱き起こして運び去ろうとするので、役人たちが止めに入り、押し問答になります。
すると熊五郎が「どうもわからなくなった。」とつぶやくのです。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
そそっかしい2人のドタバタ劇と考えれば、生きている熊五郎が最後の最後まで自分のそそっかしさに気が付かず一言というサゲで終わりなのでしょう。
しかし、熊五郎は己という存在(意識主体)を認識しながら、自分の目の前に死人となった自分がいることの矛盾に対してその答えを出そうとしていたのではないでしょうか。
そう、熊五郎は粗忽者などではなく、きっとデカルト(我思う、ゆえに我在り)やハイデガー(存在と時間)にも匹敵する偉大な哲学者だったのです。
※哲学について浅薄な知識しか持たない者の与太話とお聞き流し下さい。
弁護士 中岡正薫
弁護士 中岡 正薫
2015年12月08日(火)
振り返り
弁護士の中岡です。
早いもので今年ももう12月。街には色鮮やかなイルミネーションが飾られ、お店から流れるクリスマスソングに年末の楽しげな雰囲気を感じさせられます。昔に比べて季節感がなくなったとよく言われますが、年を重ねるにつれ、季節毎に街や自然から発せられる空気や匂いにワクワク感や哀愁を強く感じるようになった気がします。
さて、熱烈なあすかブログフリークの方であればご存知でしょうか、私が「1年の計」と銘打って、目標を掲げていたことを。
せっかくなので、今年1年を振り返る意味を込めて目的達成の検証をしようと思います。
【2015年の目標】
①トライアスロンに出場し、完走すること
②ウルトラマラソンに出場し、完走すること
③本100冊読破
①は残念ながら未達成に終わりました。大会参加の時間が作れなかったことや自転車に乗るのが面倒に感じてきたことなど要因は色々ありますが、なんといっても1番の理由は長距離を泳げる自信がなかったことでしょう。来年以降継続目標にするか、悩ましいところです。
逆に、ランニングだけはコツコツやっていたこともあり、しわいマラソン(88㎞)というウルトラマラソンでは無事完走を果たすことができました(②達成)。来年はもう1つ距離の長い大会に出てみたいですね。
本100冊はどうでしょう。はっきりと数えてはいないのですが、半分程度かなという気がします。それでも法律専門書を50冊となれば格好いいのですが、そのほとんどが小説ですので、あまり大きな声では言えません。
ということで、達成できた目標は1つだけでしたが、反省はあっても後悔はありません。
充実した1年を過ごせるよう、来年もワクワクできる目標を掲げて頑張りたいと思います。
弁護士 中岡 正薫
2015年04月27日(月)
まんじゅうこわい
暇をもてあました町人たちが、世の中の怖いものを言い合います。「クモ」「ヘビ」「アリ」などと言い合っていると、一人の男が「いい若い者が情けない。世の中に怖いものなどあるものか」と皆を馬鹿にします。怒った他の男が「本当に怖いものはないのか」と聞くと、うそぶいていた男はしぶしぶ「まんじゅう」と呟きます。男はその後、「まんじゅうの話をしているだけで気分が悪くなった」と言い出し、隣の部屋で寝る(ふりをします)。
残った男たちはイタズラ心を起こし、「あいつは気に食わないから、まんじゅう攻めにして脅してやろう」と、金を出し合い、まんじゅうをたくさん買いこんで、男の寝ている部屋へどんどん投げ込むのです。すると、男はひどく狼狽した(ふりをしながら)、「こんな怖いものは食べてしまって、なくしてしまおう」「うますぎて、怖い」などと言ってまんじゅうを全部食べてしまいます。
一部始終をのぞいて見ていた男たちは、男にだまされていたことに気付き、怒った男達が「お前が本当に怖いものは何だ!」と聞きます。
すると、男は言います。
「今は濃いお茶が1杯怖い」。
この話の主人公のすごいところは、行き当たりばったりで獲得目標(ここでは饅頭)を得たのではなく、怖いものを言い合っている時点から他の男の心理を計算して戦略的に饅頭を獲得したところにあります。
あえて挑戦的な発言を男達に投げかけて復讐心を煽り、別室に引きこもることで男達にイタズラの打合せの機会を与えて自分達の行動に正当性を与え、同時に饅頭が怖いという荒唐無稽な話をも妄信させているのです。
そして、最後の一言でしてやられた男達も脱帽せざるを得ません。
交渉術として学ぶところの多いお話です。