弁護士 中岡 正薫
2016年02月02日(火)
粗忽長屋
住人が皆粗忽者(そそっかしい人)ばかりという長屋に住む八五郎と熊五郎。
ある日、浅草観音詣でに来た八五郎は人だかりに遭遇します。その場にいた役人に行き倒れがいると聞かされた八五郎がその死人の顔を見ます。すると、八五郎は、「こいつは同じ長屋の熊五郎だ。そういえば今朝こいつは体の具合が悪いと言っていた。」と言い出します。役人は「この行き倒れが死んだのは昨晩だから、今朝会ったというお前の友達とは別人だ」と言うのですが、八五郎は聞く耳を持たず、「これから熊五郎本人を呼んでくる。」と言い残してその場を立ち去ります。
八五郎は長屋へ戻ると、熊五郎に「お前が死んでるぞ。」「お前は粗忽者だから自分が死んだことにも気が付いてないんだ。」などと言い聞かせ、自分は死んだのだと信じた粗忽者の熊五郎を行き倒れのところへ連れて行きます。
熊五郎は、死体の顔を見て「これは間違いなく俺だ。」と言います。周囲の者は呆れて「この死体がお前のわけがない。」と言いますが、熊五郎も八五郎も納得しません。2人が「熊五郎の死体」を抱き起こして運び去ろうとするので、役人たちが止めに入り、押し問答になります。
すると熊五郎が「どうもわからなくなった。」とつぶやくのです。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
そそっかしい2人のドタバタ劇と考えれば、生きている熊五郎が最後の最後まで自分のそそっかしさに気が付かず一言というサゲで終わりなのでしょう。
しかし、熊五郎は己という存在(意識主体)を認識しながら、自分の目の前に死人となった自分がいることの矛盾に対してその答えを出そうとしていたのではないでしょうか。
そう、熊五郎は粗忽者などではなく、きっとデカルト(我思う、ゆえに我在り)やハイデガー(存在と時間)にも匹敵する偉大な哲学者だったのです。
※哲学について浅薄な知識しか持たない者の与太話とお聞き流し下さい。
弁護士 中岡正薫